2009年07月02日

渡辺崋山 今よりなんなりと志すなら

幕末の画家として有名な渡辺崋山

白川芝山金子金陵谷文晁に師事し、絵画の技術を学んでいた。
当然当時は開国の嵐が吹き荒れ、西洋の新しい技術や文化が怒涛の如く入り込んできていた。
文化人たちはこの西洋技術に涎が出る思いでのめり込んでいっただろう。

渡辺崋山もその一人であった。
画家としての貪欲な心が西洋文化を欲した。
そんな西洋画への傾倒が崋山を蘭学研究へと導いていく。

崋山は日本の鎖国が近代化を妨げていると確信し、日本の海防強化を目的とする尚歯会を立ち上げる。
メンバーには高野長英小関三英ら蘭学者たちがいた。

当然ながら崋山たちのこのような行動は幕府の目にも付くことになり、その行動は監視されることとなる。
しかし、渡辺崋山はそんな厳しい状況の中でも己の信念を曲げることはしなかった。

崋山曰く「今よりなんなりと志すなら、いかなることでも、できぬことはあるまい」と言っている。

どんな状況においても、しっかりとした志があればかならず成就する。
だから信念を曲げる事無く、志を確かにしなさい。ということだろう。

だが、そんな渡辺崋山だったが、1839年(天保10年)蛮社の獄にて逮捕。
無実の罪で在所蟄居を命じられ、そしてその2年後。崋山は自らを不忠不孝と称して自刃してしまう。

志が折れてしまったのだろうか。
渡辺崋山は49歳でこの世を去る。

もう少し長く生きていれば、幕末の動乱の中どのような動きをするのか見てみたかったものである。

ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。
ランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット

渡辺崋山 Price2,730 円
渡辺崋山 Price1,155 円
ひとの最後の言葉 Price840 円
幕末機関説 いろはにほへと1 Price4,725 円

吉田松陰が好んだ「至誠にして動かざるものは、いまだこれ有らざるなり」Tシャツ Price3,980 円
1866年(慶応2年)1月21日(旧暦)に成立した薩長同盟Tシャツ Price3,980 円
幕末の風雲児・高杉晋作が三味線を弾いて歌っている姿をデザインしたTシャツPrice3,980 円




  
タグ :渡辺崋山

Posted by 左近将監 at 08:28Comments(1)TrackBack(0)

2009年06月13日

武田耕雲斎 咲く梅の花は

水戸藩の若き志士達につられる形で立ち上がった武田耕雲斎

水戸の三田と称される藤田東湖戸田忠太夫武田耕雲斎
志を共にした同士の藤田東湖の子 藤田小四郎天狗党を率いて挙兵してしまう。
耕雲斎は藤田小四郎に早まった行動であると諌めたが、若き血は熱く滾ってしまい抑えることは出来なかった。
そればかりか、その熱き血に押され、老臣 武田耕雲斎も天狗党の首領として動き出してしまう。

しかし時代が天狗党を時期尚早とみていた。
水戸藩内で戦いを繰り広げるも劣勢に立たされ、行き場を失った天狗党は、京都にいる一橋慶喜を水戸藩の新たな藩主に迎えようと京都を目指し西進するのだ。

800名の将兵を率いて中山道を進軍したが、幕府の追っ手や、行き先々での攻防により次第に兵は減り、そればかりか、あてにしていた一橋慶喜も彼ら天狗党を見捨てたのだ。

完全に行き場がなくなった天狗党は美濃揖斐から福井敦賀に抜け、敦賀にて幕府に降伏した。
残った天狗党352名は全員斬首となり、武田耕雲斎も敦賀にて亡くなった。

このときの辞世の句が次のものである。

咲く梅の花は はかなく散るとても 馨りは君が袖に移らん

梅の花ははかなく散っても、残り香は君の袖に残るといった意味だ。
ここで言う君とは、志を共にした攘夷の志士達なのだろう。

自分達はここ、敦賀の地にてはかなく、志半ばで散っていくが、この行動や思想は志士達の原動力となろう。と言った意味であろう。
時代の変換期に大きく揺れ動いた志士達。

彼らの捨て身の行動が今の日本の世の中を作っているのだ。

ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。
ランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット



古民家の宿 庄や山口
割烹旅館 さかなや隠居
大洗観光ホテル
リゾート大洗 まつもと


  

Posted by 左近将監 at 18:20Comments(2)TrackBack(0)水戸藩

2009年06月10日

塩浸温泉 龍馬とお龍

先日鹿児島に行ってきた。

毎年5月に行くのだが、今回で12回目。
さすがに遊びで行っているわけではないので、観光名所などはなかなか思うようには見てまわれないのだ。

今年はたまたま霧島のほうに行くと言うので、バスの運転手さん頼んで坂本龍馬お龍が立ち寄ったという塩浸温泉に寄ってもらうことにした。

地元鹿児島の人には聞いてはいたが、行ってみてビックリ。
何もない・・・・・

あるのは龍馬とお龍の像だけ・・・・



あぁ~~なんだ・・このす寂れた感は。
どうやら来年の大河ドラマ「龍馬伝」のために老朽化した温泉施設を建て直すのだとか。
だから現在は休業中で、人っ子一人いない状態なのだ。

でも温泉のよこにある川には坂本龍馬が浸かったとされる湯船があり、見ることは出来た。
施設を建て直した暁には、その湯船まで歩いていけるようにして欲しいものですね。
歴史マニアにしてみれば、側まで行けるだけで幸せ感で一杯ですよ。



ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。
ランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット

土佐 麦焼酎竜馬 25度 陶器つぼ入り 720ml
龍馬とお龍 25度 720ml
幕末の英雄・坂本龍馬が伏見奉行所に襲われた寺田屋事件をデザイン!
坂本龍馬「組合角に桔梗」のステンレス製のストラップ



クワガタ4000匹以上がお待ちしております!  
タグ :坂本龍馬

Posted by 左近将監 at 17:45Comments(0)TrackBack(0)龍馬伝

2009年05月20日

西郷隆盛の書状発見

西郷隆盛の書状が発見された。

これまでに見られていなかったもののようで、幕末期の様子が窺える重要な史料になりそうだ。
今回発見された書状は、西郷隆盛が戊辰戦争で官軍の参謀を務め、江戸城総攻撃に向かうときの物。

西郷が1868年(慶応4年)3月13日に薩摩藩士・川崎祐名に送った、これまで知られていない書状。

3月13日は西郷隆盛と幕府側の勝海舟が江戸・高輪の薩摩藩邸で会談した当日でもある。
今回発見された書状を寄贈された鹿児島の黎明館の崎山健文学芸専門員は「絶対的に有利な状況を築いた上で交渉に臨む、西郷の典型的な政治手法が読み取れる」と話している。

5月1日から約1ヶ月間、黎明館にて常設展示されるそうだ。

書状のあて先は、軍の会計・補給担当の責任者だった川崎正右衛門祐名
西郷は長州藩の兵55人を世話するよう指示し、また目黒に駐屯している一隊はそのまま滞在させ、品川宿の兵は高輪の薩摩藩邸に駐留させることを伝えるなど、城を取り囲むように陣を配した様子が分かる。

江戸城総攻撃の準備は整えられ、いつでも徳川幕府を潰滅する準備は整えられていたのだ。
しかし西郷と勝の会談後、江戸城は無血開城された。
書状は川崎の子孫に伝わったもので、ほかの書簡や古写真などを合わせて計692点がこのほど黎明館に寄託された。
 

ちなみに川崎祐名とは、薩摩藩士で、戊辰戦争では鹿児島藩の小荷駄奉行代理として東北を転戦。
維新後は、兵部省にはいり、西南戦争では征討第四旅団会計部長となる。
陸軍会計監督長、貴族院議員を歴任し、明治39年1月13日死去。74歳であった。


ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。
ランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット


西郷隆盛孤高の英雄全軌跡 Price1,890 円
西郷隆盛の人生訓新装版 Price1,050 円
図説西郷隆盛と大久保利通新装版 Price1,890 円
西郷隆盛伝説 Price1,890 円

有田焼 角瓶(デカンタ) 幕末シリーズ 西郷隆盛 Price4,980 円
西郷隆盛がこよなく愛した芋焼酎。 石蔵 芋 25度 720ml Price2,100 円
鹿児島県産の黒豚が色々入ってと-ってもお得なお試しセット!!Price3,450 円
ANAFESTA 鹿児島空港 菓子部門ランキング1位国分とらや タルトじゃっど 紫いも・栗Price2,400 円



霧島温泉 さくらさくら温泉
霧島唯一の展望温泉の宿 霧島観光ホテル
霧島温泉 貸切露天風呂のある宿 ペンション遊鹿霧(ユウカム)
霧島美人の湯 スパホテルYou湯


  
タグ :西郷隆盛

Posted by 左近将監 at 23:33Comments(4)TrackBack(0)

2009年05月19日

「龍馬伝」平井加尾役に広末涼子

来年の大河ドラマ「龍馬伝」
坂本龍馬の初恋の相手 平井加尾広末涼子が演ずることが決まった。

加尾は、幕末の土佐藩士・平井収二郎の妹。
その年齢や人物像には諸説あるが、一般的には龍馬より3、4歳年下で、龍馬の姉・乙女と友人であったことから龍馬と知り合い、才色兼備、姉御肌という点に龍馬がひかれたとされる。
1861年(文久元年)龍馬が加尾にあてた書簡の存在も有名だ。

 これまでにも幾度となく大河の出演依頼は受けたが、1年間という長丁場であるためにスケジュール調整ができなかったという広末。

だが今回は、毎年夏の「よさこい祭り」には子どもとともに帰るほど、故郷思いの強い自身の出身地である高知県が主な舞台ということもあり、出演依頼を快諾した。


現在、キャストは龍馬役の福山以外には、岩崎弥太郎の香川照之、勝海舟の武田鉄矢、西郷隆盛の高橋克実が発表されており、今後も順次配役が発表される。

ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。
ランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット

坂本龍馬が飲んだかもしれない珈琲 Price2,560 円
『龍馬会モデル 20 龍馬 ミニベロ 6S 』 20インチ 自転車 アルミフレーム ミニベロ 6段変速 Price28,300 円
幕末志士シリーズ 坂本龍馬「家紋」彫刻入りパワーストーンPrice9,800 円


  
タグ :坂本龍馬

Posted by 左近将監 at 23:34Comments(0)TrackBack(0)龍馬伝

2009年05月06日

平野國臣 こころよくやがて

福岡藩が誇る幕末の志士 平野國臣

平野は他の幕末の志士たちとはちょっと異色であった。
幕末の志士達は多くは尊皇攘夷論者が多く、その思想は分かりやすかった。

平野の場合は生粋の国粋主義者であった。
日本の古い衣装を纏い笛を吹きながら街を歩くなど常人離れしたことをやって注目を浴びていたそうだ。

平野國臣はそうした行動により注目を集めさせ、自身の思想も関心を持たせようとした。
そんな平野の行動を理解し、支援をしたのが豪商 三宅定太郎や下関の白石正一郎らだった。

そんな平野は他の志士達同様に時代を変えるために京都にあがった。
京都に上がった平野は時期を見なくてはいけないとして、猪突的な行動を控えるようになった。
京都には攘夷の志士たちが溢れかえっており、その一方で新撰組など志士達を取り締まる過激な組織も盛んに活動しており、そんなところで過激な行動をしようものなら、自身の志を遂げる事無く犬死にしてしまうと悟ったからだ。

しかし、新撰組の過激な取り締まりは大人しくしていた平野をも追うことになる。
平野は新撰組を心底憎んでいたようで、こんな歌を詠んでいる。

「こころよくやがて みながら苅すてん ほこらばほこれ醜の醜草」

醜草とは新撰組の蔑称であり、そこからも平野が新撰組の存在を嫌っていたほどが分かるだろう。
新撰組は時代の流れも分からない武力集団で、自分達のことしか考えていない集団とみていたのだ。

だから日本のために命をかけている志士達からみて余計に腹が立ったのだろう。
そんな平野は禁門の変の際に獄舎に兵火がおよび脱獄されることを案じた獄舎番により処刑されてしまっている。

ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。
ランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット



大人が選ぶこだわりモノ特集  
タグ :平野國臣

Posted by 左近将監 at 23:17Comments(1)TrackBack(0)福岡藩

2009年05月02日

久坂玄瑞 然らば致し方なし

久坂玄瑞吉田松陰松下村塾きっての秀才だった。

高杉晋作と共に双璧と呼ばれ賞賛されたほどの逸材であった。
もともとが素直で誠実な性格だったこともあり、吉田松陰は自身の教えをすべて託し、しかも妹の文を娶わせているのだ。
そんな師匠 吉田松陰安政の大獄により江戸にて処刑されてしまう。

久坂玄瑞は松陰の信念を貫き最後まで死を恐れない生き様を見て、自身の命の行方を覚悟した。

1864年(元治元年)禁門の変が起こる。
前年に8.18の政変で京都を追い出されてしまった長州藩は、行き場を失い武力による名誉回復と政界復帰を画策したのだ。
久坂はこの計画に反対で、時期尚早、穏便に交渉することを提案した。

だが、立て続けに屈辱的な仕打ちを受けた長州藩士たちの怒りの鉾先は抑えることが出来ずに、久坂の思いとは逆に長州藩は武装蜂起派によって過激な行動に出てしまう。
久坂は従軍しなんとか抑えようとしたのだが、抑えることが出来ず、ついに決起してしまう。

このとき久坂が言った言葉は「然らばどうも致し方なし」だ。

戦いは長州藩には圧倒的に不利でり、朝廷に向けて発砲してしまったことで朝敵とされてしまう。
久坂は最後まで諦めることはなく奮戦したが、流れ弾に当たってしまい、寺島忠三郎とともに鷹司邸内で自刃して果てた。

久坂は死ぬことを恐れたわけではない。
先ほどの言葉でも分かるように、久坂は死ぬべき時は躊躇わず死ぬという覚悟は持っていたのだ。
それは師である吉田松陰から身をもって教えられたものであった。


ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。
ランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット

久坂玄瑞『七郷都落之歌』拓本 Price39,900 円
吉田松陰名語録 Price1,680 円
NHKその時歴史が動いた(志士たちの幕末編) Price920 円





  

Posted by 左近将監 at 20:39Comments(0)TrackBack(0)久坂玄瑞

2009年04月30日

中岡慎太郎 志とは

1867年(慶応3年)11月17日近江屋にて襲撃を受け、坂本龍馬とともに凶刃に倒れた中岡慎太郎

慎太郎が居なければ龍馬の活躍もあったかどうか分からないくらいの人である。
また、その逆も然りで、龍馬がいたからこそ慎太郎も奔走できた。
中岡慎太郎の人生は目先の貴賎では計れない行動が少なくない。

慎太郎の信念は「志とは目先の貴賎で動かされるようなものではない」である。

慎太郎自身は上級武士の子として生まれながら尊皇攘夷活動のため自ら脱藩し維新活動を行っている。
そこには中岡の志を感じるし、志がなければとてもじゃないがやれないようなことを次から次へとやっていくのだ。
島津久光暗殺計画禁門の変に参戦したり、馬関戦争にも参加している。

家柄や身分に関係なく多くの人と交流し、時間が経過すれば過去に思想が違った人とでも意見交換し、自身の目指す道に役立てていく。

先ほどの言葉には続きがあり、 「今は賤しいと思えるものが明日には貴いかもしれない。君子となる小人となるかは家柄の中にはない。君、自らの中にあるのだ」と続く。
中岡慎太郎の理念はまさに「志」の中にある。

その「志」があったからこそ明治維新の礎となることができたのだ。
龍馬も慎太郎にも言えるのだが、二人のイメージは険しいものはない。
笑顔なイメージがある。
それは「しなければならない」ではなく「しなくてはいられない」だったのだろう。
だからそこに悲壮感はなく、自身の目指す「志」に向け動いているから変わりつつある日本に喜びすら感じていたのかも知れない。
だから、中岡慎太郎の写真は笑顔なのだろう。


ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。
ランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット

中岡慎太郎伝 Price3,990 円
幕末“志士”列伝 Price590 円
龍馬、原点消ゆ。 Price2,415 円
龍馬と長州は恩人だった。龍馬と長州【永久保存版】 Price4,800 円




  

Posted by 左近将監 at 20:59Comments(0)TrackBack(0)中岡慎太郎

2009年04月25日

橋本左内 曲げぬ持論

江戸時代随一の天才と言われている橋本左内

橋本左内は大坂の適塾で蘭学と西洋医学を学んでいたが、適塾の塾頭 緒方洪庵「他日、塾名を上げる者は左内」と言わしめたほどである。

1858年井伊直弼が大老に就任すると、徳川慶喜擁立のために奔走していた一橋一派の諸士は身柄を拘束された。
橋本左内もその一人であった。

井伊は一橋一派を徹底的に弾圧した。
橋本左内は朝廷工作を通じて公家の無能さを実感し、幕府による政治こそが理想と判断していたが、井伊にとっては橋本左内らは倒幕を目論む叛乱分子でしかなかったのだ。

左内は厳しい尋問を受けるのだが、自分自身の判断に迷いがなかったので、どんな尋問にも屈することはなかった。
そんな時に左内は「何遍にても今日之通御答申し上ぐ可く候」と言い放ち自身の答えを曲げることはなかった。

この後安政の大獄により斬首になってしまうのだが、左内は最後の最後まで信義を貫き通したのだ。



ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。
ランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット


君よ、志を持って生きてみないかPrice1,575 円
啓発録縮刷改訂版 Price4,200 円
幕末維新・群像の死に際 Price914 円
橋本左内 Price2,039 円

  

Posted by 左近将監 at 23:29Comments(0)TrackBack(0)福井藩

2009年04月09日

明治維新密議拠点 公開

明治維新で中心的役割を果たした岩倉具視
そこには多くの志士達が訪れていた。

坂本龍馬をはじめ、西郷隆盛中岡慎太郎・・・などなど志士で岩倉に会いに来なかった人物はいないだろう。

その岩倉具視の私邸で志士達との密談場所として使われていた「六英堂」が公開されるようだ。

六英堂は、木造平屋建て約100平方メートル。
東京に建てられたが、岩倉の死後、各地を移転しながら保存され、77年、同神社の境内に移築された。
柱や屋根など、ほぼ当時のまま残されている。普段は茶室として貸し出しているが、一般公開はしていない。

六英堂の名は、西郷隆盛木戸孝允大久保利通ら「六英傑」が集ったことから、後に付けられた。
「明治高官集会所」などの異名もあり、明治政府の運営など、密議が行われた。

岩倉具視が病気で寝込み、最期を迎えた場所でもあり、明治天皇が見舞いに来た様子を描いた絵も展示されている。

ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。
ランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット

岩倉具視
幕末維新の暗号
帝国議会誕生
京都に遊ぶ




  

Posted by 左近将監 at 08:40Comments(0)TrackBack(0)未分類

2009年04月08日

授業で吉田松陰

山口県教育委員会が明治維新に大きな影響を与えた吉田松陰を授業などで取り上げることを決めたそうだ。

県内すべての公立小中学校に改正教育基本法に「愛国心条項」が盛り込まれたことに対応し、今年が松陰の没後150年であることに着目したそうで、都道府県教委が特定の人物を教えるよう全校に奨励するのは珍しいということだ。

山口県教委は新規事業として「ふるさとの先人に学ぶ教育の推進」を掲げ、「松陰の生き方や業績を題材に様々な取り組みを行う」としている。

「具体的な取り組み方は各校に任せるが、例えば、松陰をテーマとした弁論大会や史跡訪問、カルタ遊びなどが考えられる。朝礼の講話や歌を歌うなどして業績を伝えてもいい」と話している。

 安倍内閣時代の06年に改正された教育基本法には、「教育の目標」の条項に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」とする「愛国心条項」が加わった。
これを反映した改訂学習指導要領が小学校で11年度、中学校で12年度から全面実施されることを踏まえ、県を挙げて取り組むことにしたという。

山口県からは松陰のほかにも、桂小五郎高杉晋作ら維新の志士が多数輩出した。
詩人の中原中也や金子みすゞも有名だ。
吉田松陰だけを特に奨励する理由について、「没後150年で注目されている。高杉や伊藤もいるが、松陰は彼らを教えた人物だ」と説明する。

 尊王攘夷を説いた松陰は戦前の修身教育に利用された歴史がある。
田中彰・北大名誉教授の著書「吉田松陰」によると、「忠君愛国」の理想的人間像として鼓吹された。

「取り上げる松陰の教えは進取の気質や親を敬う気持ちが中心。天皇や日本に関する思想には触れない」と説明している。
「松陰の新しいことにチャレンジする生き方、平等思想は今も大事だ」として、取り組みは10年度以降も続ける方針だ。


ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。
ランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット



  
タグ :吉田松陰

Posted by 左近将監 at 07:37Comments(0)TrackBack(0)未分類

2009年03月14日

西郷隆盛 情に循うて以て情を治む

江戸幕府を誅するために東征大総督府下参謀として軍を進めていた西郷隆盛

そんな西郷の下に幕府の使者として山岡鉄舟が現れる。
山岡を西郷の下に遣わしたのは勝海舟であった。

勝の目的は「罪もない百万の生霊を如何救うか」だった。

まずは山岡を通じて西郷に意思を伝え、西郷の動きを確認をしたかった。

山岡の見事な説得もあり、西郷は勝との会見に同意する。
西郷隆盛と勝海舟は1868年(慶応4年)3月13日江戸・高輪の薩摩藩邸で会見した。

勝は西郷に訴えた。

「いち徳川家のために天下の首都・江戸で一戦を交え、国民を殺すようなことを寡君は決して考えておりません。公平な御処置をいただき、皇国が心から団結していることを国内外に示していただくことを望むだけです」と説いた。

もともとが同じような思想の二人である。

西郷は一言こう応えた。
「いろいろむつかしい議論もありませうが、私が一身にかけて御引受けします」

この一言で総攻撃はその開始前日に中止となったのだ。

西郷はこの時の決断の気持ちを、後年こう記している。
「情に循うて以て情を治む、これを王道と謂う」

まさに現代の政治家にも欲しい気持ちだ。

ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします。
ランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット


図解で迫る西郷隆盛 Price1,680 円
西郷隆盛の人生訓新装版 Price1,050 円
西郷隆盛孤高の英雄全軌跡 Price1,890 円
西郷隆盛人間学 Price1,575 円








  

Posted by 左近将監 at 19:35Comments(1)TrackBack(0)西郷隆盛

2009年03月12日

西郷隆盛から岩倉具視への書簡発見!

明治政府の中枢を担った岩倉具視に、西郷隆盛大久保利通、伊藤博文らがあてた書簡など約1700点が広島県廿日市市の「海の見える杜美術館」に保管されていることがにわかった。

新発見とみられる文書も多く含まれるといい、8月から一般公開する予定だという。

文書は岩倉家から流出した書簡や意見書、絵などを、大阪の質店が数百巻の巻物にしたものという。

同美術館が20年ほど前に購入し保管したままだったが、三沢純・熊本大准教授らが調査・分析に着手した。

書簡は岩倉具視が明治元(1868)年から死去する16年までに受け取ったものとみられており、伊藤博文からが68通、大久保利通から191通、三条実美から429通。

西郷隆盛からの書簡も多数あり、鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争の戦況報告なども含まれている。

さらに岩倉自身の書簡の下書きも128通あった。

文書の一部は大正時代に宮内省に借し出されたほか、戦前に出版された「大久保利通文書」に引用されているという。

気になる坂本龍馬中岡慎太郎からの手紙はなかったのだろうか。

CoRichブログランキングランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット

  

Posted by 左近将監 at 20:58Comments(0)TrackBack(0)

2009年03月11日

新撰組 壬生の狼

将軍護衛で評判を上げ、隊士までも増員できた壬生浪士組

その壬生浪士組はいつしか壬生の狼と呼ばれるようになっていた。

名付けたのは預かり先の会津藩の家臣たちだった。
正規の会津藩家臣団である自分達よりも目立っている浪人組が気に入らなかったのだろう。
実力があっても所詮は浪人の集団だという意味で、狼と称したのだ。

最初は身内だけの話だったが、その後の浪士組の行動が、まさに狼のような冷血で、容赦のないやり方が相まって京都中に知れ渡る事になる。

ある日浪士組が夕涼みに出ると、その途中で道を譲る譲らないで力士たちと喧嘩になった。
居合わせた隊士は近藤、芹沢、山南、沖田、永倉、平山、野口、斉藤、島田魁だった。
浪士組一行は力士達を痛めつけ、そのまま北新地の住吉屋に登楼していると、先ほどの力士達が手に手に得物を持って仕返しに集まってきた。その数なんと20数人。

結果はさほど変わらなかったが、力士は一人が死亡、2人が重傷、14人が軽傷だった。方や浪士組は沖田と永倉が軽傷を負った程度であった。

こういった騒ぎがまた、壬生の狼達を有名にしていったのだ。

CoRichブログランキングランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット



新選組隊士伝
天誅と新選組
「新選組」土方歳三を歩く
新選組二千二百四十五日
新選組×坂本龍馬 ラブ・アンド・ピースぜよ。坂本龍馬はジョン・レノン?


大好評の新選組グッズ・浅葱色の誠印ノボリ Price800 円
招福祈願の縁起物「誠」新選組だるま4号サイズ 井上源三郎 Price1,050 円
新選組誠之旗印(両面)京都土産の新選組誠印京都平成新選組隊旗






  

Posted by 左近将監 at 17:37Comments(0)TrackBack(0)新撰組

2009年03月10日

2009年03月09日

坂本龍馬 世の中の事は

[坂本龍馬] ブログ村キーワード
坂本龍馬 さり気ない一言

『世の中の事は』


坂本龍馬の起した亀山社中
海運を主とする商社であったのだが、海運のために必要な船がなくなってしまった。
船がなければ海運業者としては陸の河童である。
成す術ががない。
さすがの龍馬もこのときは真剣に亀山社中の解散を考えたという。

龍馬は社中の面々の身の振り方として、長州の三吉慎蔵を窓口にて、全員を長州藩に託そうと考えた。
このことを社中の面々に伝えると、皆はどんな苦境があろうとも龍馬と共に行動をしたいと申し出のだ。
「然るに私共長崎に帰りたれば、また乗りかえ候船は出来ず、水夫らに泣く泣くいとま出したれば、皆泣く泣く立ち出るもあり。いつまでも死を共に致さんと申す者もあり候。うち、外に出で候もの両三人ばかりなり。おおかたの人数は何の地までも同行と申し出で候て、まことに困りいりながら、国につれ帰り候。幕府の方よりは大いに目をつけ、また長崎でも我々共は一戦争と存じ候うち、また幕吏ら金出しなどして、私水夫をつり出し候勢もあり候えども、中々たのもしきものばかりにて、出で行くものなし」と三吉慎蔵宛の手紙に書いている。

この手紙には幕府が金に物を言わせ、水夫を引き抜こうとしたが、それに応じたものは僅か2~3名で、残りのものは皆、龍馬と運命を共にする事を望んだという。
当時、亀山社中の者が持っている西洋航海術は貴重な技術であり、幕府としても放っておくにはもったいないものだった。
しかし、社中の面々は結束が固く、幕府の誘いに応じるものは殆どいなかったのだ。

坂本龍馬はそんな社中の面々を心強く思っただろうし、自分の責任の重さも実感したのではないだろうか。

そのうちに薩摩の五代才助が仲介の労をとって伊予大洲藩の買い入れた汽船「いろは丸」に乗る事ができるようになった。

さらに龍馬の奔走の甲斐があり、プロシア商人から大極丸を手に入れた。
こうして難局をなんとか乗越える事ができたのだ。

龍馬はそのときの事を姉 乙女に宛てた手紙でこう記している。

「世の中の事は月と雲、実にどうなるものやら知れず。おかしきものなり」

月に雲がかかったと思うと、また離れていく。それと同じように世の中の事はどうなるものやら分かりません。だからこそ、かえって興味が尽きないのだ。

CoRichブログランキングランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット




  

2009年03月07日

新撰組 隊士募集

会津藩主 松平容保の前で上覧試合をし、京都において少し名が売れてきた壬生浪士組

もともと将軍を警護するために江戸から京都に上がってきた浪士組。
その将軍 徳川家茂は公武合体を確かなものにするために上洛してきたのだが、これが三条実美ら攘夷派されてしまうのだ。
結果、家茂は4月20日に「5月10日までに攘夷を実行する」と約束させられてしまう。

家茂はこれによって江戸に帰ることが出来ず、大坂城で過ごす事になる。
壬生浪士組もこれに伴い、京都から大坂に移動、警護の任に就く。
これは浪士組を預かった松平容保のPR効果の目的もあったのではないだろうか。会津藩預かりの浪士組が有名になれば、藩の評判も良くなる。
一方、浪士組のほうもかつてからの念願だった将軍の警護をする事ができ、さぞかし満足げだったのだ。
新調したばかりの誠の羽織を着て颯爽と警護をしている。

浪士組は攘夷決行予定日の翌日5月11日まで大坂に留まっていたが、幕府は攘夷をする事がなかったので大坂から京都へ帰還していく。

京都に戻る頃には当初20名だった隊士も、36名に膨れ上がっている。

これは大坂にて市中警護をしている間の隊士募集活動をしており、会津藩預かりと、将軍警護という看板も手伝い隊士が入隊してきているからだ。

今後時代の間で右往左往する日本で新撰組は自分達の存在場所を見つけることになる。

CoRichブログランキングランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット


新選組隊士伝
天誅と新選組
「新選組」土方歳三を歩く
新選組二千二百四十五日




  
タグ :新撰組

Posted by 左近将監 at 22:49Comments(0)TrackBack(0)新撰組

2009年03月06日

高杉晋作 心胆未だ灰せず

[高杉晋作] ブログ村キーワード

高杉晋作 放因集

心胆未灰国欲灰
何人払尽満城塵
変姿呑炭吾生事
庸護防長土一杯


心胆未だ灰せず国灰せんと欲す。
何人か払い尽くす満城の塵
姿を変え炭を呑むは吾が生の事
防長の土一杯を護らんと要す。


心胆はまだ灰になっていないのに国は灰になろうとしている。
誰かこの城に満ちている塵を払い尽くすのだろうか。
姿を変えて炭を呑みながら、防長の小さな土地を護るほかはない。
ここでいう国とは長州藩のことだろう。

俗論派は追われ、正義派がのさばっている今、幕府の長州征伐軍も近づいてきており、長州藩は風前の灯である。
たとえどんな事があろうとも、自分がやらねばならない。
誰がこの長州藩を救うのだ。

そんな高杉晋作の叫びが聞こえてきそうだ。


CoRichブログランキングランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット






  
タグ :高杉晋作

Posted by 左近将監 at 18:17Comments(0)TrackBack(0)高杉晋作 放因集

2009年03月04日

吉田松陰 皇国の皇国たる所以

己の命をも省みず声高に日の本の国を憂えた吉田松陰

アメリカに渡ろうとして失敗し、伊豆の下田の牢獄に捕らわれた時もそれは変わらなかった。
牢獄の中で牢番にこの日本の行く末を案じ切々と語り続けた。


「皇国の皇国たる所以、人倫の人倫たる所以、夷狄の憎むべき所以を日夜高声に称説す。獄奴蠢爾といえどもまた人心あるもの、涙をふるって吾輩の志を悲しまざるはなし」

日本が建国以来、国家の中心に天皇をいただく理由、人間の守るべき道、日本を侵略、支配せんとする欧米を嫌悪すべき理由を懇々と説き、これを聞いた牢番は涙を流して松陰の話を理解し、松陰に同情した。

松陰は生涯牢獄に入るたびに、同じ牢獄にいる者たちに同じように話をしていくのだ。
そして牢獄内でも松陰塾を開き、松陰の考えを広めていく。

この誰彼かまわず、どこでも自分の考えを広めることは、松陰にしてみれば志を共にする者を一人でも多く増やそうという行動だったのかもしれない。


CoRichブログランキングランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット




  
タグ :吉田松陰

Posted by 左近将監 at 21:16Comments(0)TrackBack(0)吉田松陰

2009年03月02日

佐久間象山 士は過ちなきを貴ばず

洋学から漢学、自然科学まで精通した俊才、佐久間象山

しかし、学者であるよりも、幕末を開国と公武合体で救おうとした非常の人というイメージのほうが強いだろう。
そんな佐久間象山は「象山門下の二虎」といわれる優れた弟子を持っている。
それは悲劇の志士、吉田松陰(寅次郎)と越後長岡藩を立て直した教育者、小林虎三郎
この二人だけではない。
勝海舟坂本龍馬も門下生なのである。

 象山は「東洋の道徳と西洋の技術をあますところなく吸収することによって民を豊かにし、国恩に報いる」とし、広く知識を深め、民の生活を豊かにして、国の為に報いるとしている。
しかし、この先見の明のある考えは攘夷の志士たちには理解し難かったのだ。
三条木屋町で河上彦斎等の手にかかり暗殺されてしまう。

そんな象山の残した言葉に
「士は過ちなきを貴ばず、善く過ちを改むるを貴しとなす」

なんとも象山らしい言葉だ。
武士は間違いを良しとせず、間違いを改めることを良いこととする。

CoRichブログランキングランキングはこちらをクリック!
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へブログランキング ドット ネット

浅間温泉 東石川旅館
浅間温泉 四季彩々の隠れ宿 富士乃湯
浅間温泉 尾上の湯旅館
蔵のある宿  静保庵 小柳




  

Posted by 左近将監 at 20:45Comments(0)TrackBack(0)佐久間象山